・気功との出会い
私が初めて気功と出会ったのは14歳の頃でした。当時気管支が弱く、感覚的に繊細で、勉強、運動その他人間関係で起こる様々な競争、人を能力の多寡や立場の上下で見たり、主観的なレッテル貼りが当たり前に横行する周囲との関わりに息苦しさを感じていた私は、たまたま乗っていたバスの広告にあった西野流呼吸法の流れを汲む気功教室の案内を見て何か惹かれるものを感じ、体験してみてすぐに入会し練習を始めました。体験の時に体感した「気」の感覚は無論今にして思えばか細いものでしたが、まだ年少の頃に感じたその感覚の心地よさや、体内外から湧き起こるような充実感は今もはっきりと思い出せます。10代前半にして、生涯歩み追究するに足るものと出会えたのです。
・気の感覚を練る
気功に出会ってからは、文字通り四六時中が練習でした。元々興味がある事には没頭する性格である私は、起きている時間はすべてその感覚を磨く事に費やしました。といっても、それが苦痛だと思った事はありません。私が真面目な性格という訳ではなく、気というエネルギーが体内を巡り、意識が体内の隅々まで行き渡り、髪の毛一本一本の先に至るまで気が通ったその充実感はとても心地が良く、苦行とは真逆のもの、心地よいので止めたくなかったのです。更に10代という、社会に出る前の有り余る時間と純粋な感性、また無味乾燥で様々な事にまで神経を使わなければならない仕事等に煩わされる事のない環境がそれを許したという事もあり、中学、高校は正に気の感覚に浸り続けた時代でした。
・感覚の世界
やがて社会に出た私は、幼い頃から漠然と憧れを抱いていた福祉の分野に従事しはじめました。社会に出て多くの人と濃淡様々な関わりを経験する内に、私が感じている気の感覚を多くの人は感じていない事が分かってきました。これまで思ってもいなかった事だけに、その事に少なからず驚いた事を憶えています。元々人付き合いが得意な方ではなく、また自分に人より優れた所があるという考えもなく、自分が感じ取れているのだから他の人も感じ取れているのだろうと思っていました。今でこそ気功やヨガという分野も市民権を得ていますが、当時はまだ社会的な認知や理解も薄く、ともすると怪しげなものと思われる風潮もありましたので、自分が気功をしているという事を周囲に打ち明ける事もありませんでした。それを知った時、「もったいない事だ」と思いました。私を悩ませていた気管支の不調や後ろ向きな精神は、その頃にはほとんど消えていました。「それを治したい」と気功入門当初は思っていましたが、気の感覚に魅了され、それに浸り切る内に、治したいと思うまでもなく病や後ろ向きな気持ちの方が勝手に去って行ったのです。私と同じく悩み苦しんでいる人達が気功を知り、真摯に研鑽を重ねるなら、やればやるだけ気功はちゃんと応えてくれる。年齢により衰える事もなく、生涯その力を高めていける気功は、必ずその人のより良い人生の一助になる。そう思いました。
・「気入れ」
そのような思いを抱きながらも、まだ当時の私は自己研鑽による気の充実感だけで満足していましたが、20代後半の頃、親しくしていた人が心身のバランスを崩し、また元々代謝機能が良くなかった事もあり、目の前で苦しそうにしていました。その時に、自然にその人に掌を当て、気を送り込んでいました。今までそのような事をした事も、しようと思った事もありませんでしたが、目の前で親しい人が苦しんでいるのを見ると、そうしなければならないという気持ちが自然と起こってきたのです。しばらくそうしていると、私の気が相手の心身に浸透していく感覚が感じられ、相手の上ずっていた呼吸が深く穏やかになり、乱れていた意識も鎮まっていくのが分かりました。その後その人は自宅で休んでいたのですが、長年不眠気味だったにも関わらずその日は10時間以上も熟睡し、また代謝機能の関係で普段から汗をかかない人でしたが、睡眠中大量の発汗があったと嬉しそうに言われていました。気功はただ単に自己の心身に作用するだけでなく、熟練すれば人を癒す事も出来る。それを知った時、私の気功への情熱は更に深くなりました。
その後30代、40代に入ってからも、私は気功の研鑽に情熱を傾け、気功に興味を持った人には手ほどきをし、また気入れを行ってきました。そして積み重ねてきた経験や閃き、また私の気功に様々な角度や視野から助言を下さった方々のおかげもあり、私は遠隔気功を編み出し、理解と経験を深めながらこの道を楽しく歩む事が出来ています。私を救い、また今も導いてくれている気功を多くの方に知って頂き、その人のより良い人生の一助になる事が出来ればと思っています。
吉岡 裕昭
昭和55年生まれ。10代半ばで気功に出会って以来、その研鑽に打ち込み続ける。気功指導、遠隔気功の実施経験多数。仕事はほぼ一貫して福祉分野に従事し、社会福祉士、介護支援専門員取得。空手道3段。
